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連載 私のオリンピック・パラリンピックの思い出

杉内周作(アテネパラリンピック銅メダリスト)

第8回は、2004年アテネパラリンピック水泳競技の男子4×100メートルフリーリレー(視覚障がい49ポイント)銅メダリストの杉内周作さんにインタビュー。現在は日本パラ水泳連盟理事として若手の育成に取り組むほか、富士通の東京オリンピック・パラリンピック推進本部では講演活動などを通してパラスポーツの魅力を伝えている。今回はパラリンピックを目指した4年間の出来事、そしてメダリストになった瞬間の思い出を振り返ってもらった。

第八回 パラスポーツはクリエイティブなスポーツ

2021/08/06


2000年シドニー大会を見たことがきっかけでパラリンピックを目指した杉内さん。目の病気が判明してからも、小学生から続けてきた水泳に対する情熱が冷めることはなかった。現役時代の経験は後輩にも受け継がれ、東京2020大会には教え子が水泳競技に出場を果たす。メダリストが語るパラリンピックの舞台裏、そして水泳への思いとは?

水泳で未来を作りたいなと思ったことが全て

――いよいよパラリンピックが近づいてきました。東京2020大会には杉内さんの教え子が出場するそうですね。

杉内周作(以下、杉内) 女子50メートル自由形(S11クラス、全盲)の代表に決まった石浦智美選手です。2006年の世界選手権の時に一緒に行って、それからの付き合いです。一時期は面倒を見たこともありました。個人的に携わった選手がパラリンピックに行くことがうれしいですね。僕の手柄ではなくて彼女の手柄ですけど(笑)。彼女の努力で行ったことがすごくうれしい。

――今回は、過去にパラリンピックをあまり見たことがない方も関心を持っていると思います。見たことがなくても楽しめる、パラ水泳の観戦ポイントを教えてください。

杉内 まずは「障がいがあっても泳げるんだ」っていうふうに見てもらいたいです。次に、「障がいがあってもスポーツって楽しめるんだ」って見てください。その上で、例えば片手だけでなぜクロールが泳げるんだろうとか、選手の障がいを含めて泳いでいる姿を見た時に、選手それぞれ絶対に工夫があります。オリンピック選手とは違う工夫があって、その部分でパラスポーツはクリエイティブなスポーツだと思っています。優秀な技を作り上げた選手が集まっているという見方で見てもらえると、もっと面白くなります。

――杉内さんがパラリンピックを目指すきっかけとなった2000年シドニー大会について教えてください。

杉内 ちょうど網膜色素変性症(注1)の診断を受けた時にシドニー大会の放送があって、オリンピックではイアン・ソープ選手がいて、日本人も結構活躍していたのを見ていました。その後に放送されたパラリンピックの情報が頭の片隅にありました。病院に行って先生に「僕、パラリンピック行けますかね」と聞いたら、「知らん」って言われました(笑)。

注1    網膜の細胞に変化をきたす進行性の病気

――目の病気が分かった後も、水泳に対する気持ちがぶれることはなかったですか?

杉内 ショックはショックでしたけど、逆に「チャンスが回ってきた」という思いもどこかにありましたね。目が悪くなると、全て奪われていくような気持ちじゃないですか。大好きだった車の運転とかもできなくなる。なんだか自分が自分でなくなるという気がして。自分が自分であることを保つために、自己紹介する時は、当時から「水泳をやっていました」と言っていました。水泳で未来を作りたいなって思ったことが全てですね。

――水泳を始めたきっかけは?

杉内 水泳自体は小学生の時に始めました。他にも野球、サッカー、バスケをやりましたが、どれをやってもダメだった。水泳だけはレギュラーにしてもらえて、子どもながらに自分の居場所が見つかった感覚がありました。得意種目は一番初めに覚えた平泳ぎ。泳いでいた子の泳ぎを見て、マネして最初にできた。今度は4種目泳ぎたいと思って、なんとなく一番難しい泳法だと思ったバタフライをやろうと。当時バタフライが出来る子もいて、見てモノマネして。最後に覚えたのが背泳ぎで、いまだに不得意ですね(笑)。

――シドニー大会を観戦してどのように感じていましたか?

杉内 「成田真由美さんってすごい、金メダル何個獲るの?」とか考えていました。メドレーリレーで金メダルを取った杉田好士郎さんも覚えています。杉田さんとはアテネに一緒に行きました。視覚障がいの弱視の部みたいな感じで当時紹介していたと思います。そのキーワードで自分とリンクさせていたんでしょうね。

――パラリンピックに行けるという手応えを感じた瞬間やきっかけはありましたか?

杉内 正直、シドニーを見た時には「行ける」と思いました。当時はクラス分けの概念が分からなかったですけど、1つ障がいが重いクラスの選手が100m自由形で決勝に行ったんです。決勝のタイムと当時の自分のタイムを照らし合わせて「100m自由形がそれで8位、行ける、完全に行ける」って考えていました。でもそれは誤解で、クラスが別だったので自由形では無理だったんですね(笑)。



4年間一緒に頑張ってメダルを約束した仲間と喜べたことがうれしかった

――2004年アテネパラリンピックの代表に選ばれた時のお気持ちは?

杉内 選ばれる瞬間がどのような感じなのか知らなかったですけど、ノーベル賞の受賞者が電話の前で待つのと似たような感覚がありました。会社にいて、代表電話を最初に庶務の方が取って、なぜか上司に回したんですよ。電話に出て「おめでとう」とか言われて、最初は意味が分からなかったけど、話を聞いていくうちに理解できました。上司に伝えると喜んじゃって、お祭りのようにワッショイ、ワッショイし始めた(笑)。みんながメッセージも書いてくれて、すごく応援してくれました。

――当時の練習環境はいかがでしたか?

杉内 水泳は中学、高校、そして社会人になってからも続けていました。職場が滋賀に移って、毎日大阪のスイミングクラブまで練習に通っていたんですけど、バブル崩壊のあおりをくらっていた頃で仕事を辞めることになった。その後、半年くらい就職活動をして新しい会社に入りました。2003年は半年くらいあっちこっち行き来していましたね。ようやく自分の家の近くに良いプールを見つけて……、2コースしかないですけど(笑)。ただ、そこにいた女性のコーチが岩崎恭子さんと歳が1つ2つくらい上なのか、平泳ぎの選手だったらしくて。コーチには泳ぐことより筋トレを勧められました。1年弱くらいで肉体改造して、パラリンピックバージョンが出来上がりました(笑)。

――メダルを獲得した種目は400メートル自由形リレーでした。当日のことは覚えていますか?

杉内 当日はメダルを獲れそうな種目の1つめでした。他の種目も1つ、2つ泳いだ後だったので、パラリンピックの予選と決勝の雰囲気を分かった上で、こうすればいけるな、チームに貢献できるなっていうのがありました。当日、監督からオーダーを聞いた時に、まずはほっとしました。男子の視覚障がい選手が5人いて、監督が私の顔を見るたびにいじるんです。「誰を出していいか、俺迷っちゃうよな。誰がいいと思う?」って。本気で悩みましたよ。つい最近、監督本人に聞いたら「あ、ごめん、それ本気でいじってた」って言われました(笑)。

――杉内さんは第2泳者を務めてメダル獲得に貢献しました。メダリストになった瞬間はいかがでしたか?

杉内 アンカーの酒井義和選手がタッチして電光掲示板見たら「JAPAN」の文字が3位に入っているのが見えた。「やったー!」って叫びましたよ。それから第3泳者の恵川光生選手に「3位、3位!入った!最後粘ったよ!」って言って、2人で抱き合って喜びました。4年間一緒に頑張ってメダルを約束したライバルであり、親友でもある仲間と喜べたっていうのがうれしかったですね。




――パラリンピック期間中にご家族の記念日が続いたそうですね?

杉内 リレーの日は結婚記念日、加えて平泳ぎの日が娘の誕生日でした。家族のアニバーサリーに続けてメダルを獲れたらと思っていました。得意種目の平泳ぎは4位。人生そう上手くはいかないぞってことですね(笑)。でも、ベストレースはアテネの平泳ぎでした。泳いでいることにすごく幸せを感じられました。

――初めてのパラリンピックで、競技以外に印象的なことはありましたか?

杉内 全く知らない競技の選手が、選手村の中で月桂冠と花束を持って帰って来る姿を見かけたんですよ。海外の選手や役員の方が、その選手に「コングラチュレーション!」って声を掛けていた。衝撃的でした。海外の選手って勝者に対しての敬意を心で思うだけじゃないんだと。私も「コングラチュレーション」って言いましたし、自分が獲った時にはそう言われたのでうれしかった。スポーツをやってアテネにいたっていう仲間意識が今でもありますね。

――アテネから北京を目指す中で引退を決断されました。後悔はありませんでしたか?

杉内 なかったです。30歳を超えてなかなか上手くいかない部分もあって、練習量が少なくなりました。そして、北京の前の国内大会で記録が出ず「ダメだな」と。潔く身を引こうと思いました。一番近くで見てくれていた妻が「お疲れ様、よく頑張ったよ」って言ってくれてうれしかったです。

毎日がパラリンピックになれ。良いレースだったと振り返られるように

――東京2020大会では共生社会を目標に掲げています。杉内さんが考える理想の社会はどのような形でしょうか?

杉内 パラリンピックを見てもらった時に十人十色の意見があっていい。いろんな意見を出し合った時に、受け入れる心があってほしいですね。その心があると共生社会に近づけるのではないでしょうか。大会が終わってからいろいろな意見を出してもらって、受け入れて、どのようにしたら目の前の人に喜んでもらえるのかという観点で考え続けることができれば、今大会がきっかけとなって日本社会にプラスになると思います。

――最後に東京2020大会に向けて頑張っている選手のみなさんにメッセージをお願いします。

杉内 毎日がパラリンピックになれ、と思っています。以前よりもパラリンピックの注目度が上がっていて、しかも自国開催。選手の皆さんは私が考えている以上にプレッシャーを感じていると思います。だけど、パラリンピックの水泳を通じてつかんだ本質の一つがあります。どのような大会でも、100m自由形は100m自由形、100mバタフライなら100mバタフライなんです。日頃からパラリンピックのつもりで練習をして、本番でいかに普段の練習でやっていることを出せるか。もう今からでもパラリンピックをやってくれ、みたいな。プレッシャーはあると思うけれど、最終的には毎日同じことをやれば良くて、泳ぎ終わって良いレースだったって振り返られるようにしてほしいです。



取材・文=岡田剛(アンサンヒーロー)/撮影=後藤利江


杉内周作(すぎうち・しゅうさく)

1974年1月22日生まれ。愛知県出身。2004年アテネパラリンピック水泳競技男子4×100メートルフリーリレー(視覚障がい49ポイント)銅メダル。現在は富士通株式会社東京オリンピック・パラリンピック推進本部に所属。ジュニア世代のコーチを担当する傍ら、講演活動でパラスポーツの魅力を伝えている。日本パラリンピック委員会アスリート委員会幹事、一般社団法人日本パラ水泳連盟理事などを務める。


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東京2020パラリンピック公式ガイドブック
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発売日:2021年6月30日(水)
定価:1,980円(本体1,800円+税)
判型:A4正寸
ページ数:146P

書籍詳細